土屋遙一朗 早苗メンバー卒業のお知らせ ならびにメッセージ

TFCホームページをご覧くださっているみなさま、いつもありがとうございます。

2019年3月をもちまして、土屋遥一朗が早苗メンバーを卒業し、TFCの活動から離れることとなりました。

お知らせとともに、メッセージを全文そのまま掲載させていただきます。

みなさま、ご無沙汰しております。稲刈りが終わって以来、すっかりフェイスブックの更新もなく、何をしてたんだとご心配をおかけしてしまったかもしれません。まずは、すみません。

このメッセージを書こうとして、何を、どうやって伝えたらいいのか、悩みました。

このメッセージを、言葉の技術に頼って書き、きれいに消えてしまうのは簡単です。でも、それじゃ済まない、あんまりにも貰ったものが多すぎる、だから、悩みました。それで、思ったそのままを、読んでもらいたいと、そうしてこれを書いています。

これは、僕が「毎週天栄村に通っている人」として書く、最後のメッセージです。

2016年の春に、初めて天栄村と出会いました。初めての田植え、初めての稲刈り。それまで田んぼに入ったことがなかった僕は、楽しくてしょうがない、そんな一年でした。

2017年、その楽しさをもっと味わいたい。それで、田んぼツアーがないときにも、通うようになりました。清水さんの種まきにお邪魔させてもらい、少しだけ「農」に踏み込めた気がしました。それから、前野さん、圓谷さん、桑名家のみなさん。色々な人にお世話になりながら、子どもたちを集めて勉強会を開いたり、東京の教え子たちと一緒に、福島の色々な景色を見に行きました。その隣には、いつも田んぼがありました。

教育と農。それを考え始めたのは、そんな2017年の稲刈りが終わる頃でした。

来年は、農と教育を繋げるために、農に踏み込む一年にしよう。「学校」を作る。その憧れは、確かにそのとき燃えていました。

2018年。吉成さん、馬場さん、石井さん、芳賀さん。それから金井さん、島村さん。天栄村ファームコンソーシアムの一員として、その面々に加わりました。さらに、ヒロ子さんの教えのもと、畑作りも始めました。
肥料振り、種蒔き、田植え、草取り。草を見ずして草を取ること。朝四時から田の草を取った日もありました。朝焼けの中で収穫した夏野菜の、ずしりとした重さ。なにかを掴んだという手ごたえを、僕はたしかに感じていました。

でも、いま思えば、それが転換点でもあったのかもしれません。掻いた汗と手ごたえのなかには、何か僕にとって、持っていたはずの憧れを押しとどめてしまうような何かが、あったのかもしれません。

それが何なのかを、今はまだ正確に言葉にできません。ただ振り返ってみると、あの喜びの中に、なにか影のようなものがあった気がします。それはどうしてなのか、色々考えてみました。それまで体を使う仕事をしたことがなかったからガタがきたのか。それとも、天栄と東京という全くリズムの違う二つの生活を掛けもつ中で、振る舞い方がわからなくなったのか。一方では「先生」として教えながら、もう一方では何も知らない者として叱られながら体を使う、その繰り返しの中で、自分がわからなくなってしまったのか。たぶん、それぞれの小さなことが積み重なって、どこか、自分でも気づかないところで、ひずみが生まれていたのかもしれません。

東北一周旅行に出かけたのは、そんな最中の八月でした。それは農にとっては、収穫のためには、最も目を離してはいけない時期でした。

作物は、正直です。旅から帰ると、畑のネギは力なく枯れかかっていました。それを見ると、田んぼで育っている稲を見るにも、不安が込み上げて来ました。

そこで頭を下げて、「すみません、こうしたいのですが、これを教えてくれませんか」と言えればよかった。いま一番後悔しているのは、このことです。

僕は、それが出来ませんでした。「足腰が痛いって言ってたので、悪いから」とか、「今日は畑の方をやらなければいけないから」とか、「雨が降って来たから」とか、ほんとうは自分が動いたり、頭を下げるのがこわいだけなのに、それを他のことにすり替えて、逃げていました。

それが何回も重なったとき、畑や田んぼは、僕にとって「行きづらい」場所になっていました。

けっきょく全部僕の問題だったのに、それを見ようとしていなかった。自分で分かっているつもりになって、そのくせ言い訳ばっかり達者で、けっきょく誰の手も握り返さなかった。

気づけば、僕はあまりにも、苦しい顔をしていました。稲刈りの夜のあの歌は、精いっぱいの叫びでした。苦しくてしょうがなかった。なんとかしたくて、でも自分の弱さは認められなくて、僕は自分の中に閉じこもって自分と会話して、それで苦しいくるしい叫んで、そのくせ、たったひとこと言えればいくらでも知恵と激励をくれる人たちのことは、全然見ようともしていなかった。

僕が見えていたのは自分の中の世界だけでした。そうして僕が僕の中に閉じこもっていた間に、手を差し伸べてくれた人たちを失望させてしまっていました。

それでも、叱ってくれようとしました。まだ見てくれようとしていました。でも、そんな大切な言葉も、あの頃の僕は「裁かれている」と感じていました。その人たちに会いに行くのが、苦しいことに感じられました。稲刈りと、その後の脱穀や、袋詰め、お世話になった人々へのお届け。ほんとうは喜び一杯のことのはずなのに、僕は一人で苦しんでいました。

農から手を引く。

そんな時に、その選択肢が出てくるのは、自然なことでした。それを頭に浮かべた時に、「これで楽になる」と思いました。まったく自分勝手なことですが、それでずいぶんほっとしていました。

その選択肢を選ぶことが、どれだけの人に頭を下げさせ、どれだけの人をがっかりさせるかは、まだ見えていませんでした。

それに気づいたのは、もう後戻りできなくなってからでした。いや、そうなってからでさえ、自分では気づけなかった。あのとき、前野さんや金井さん、それから吉成さんが、僕の殻を本気で剥がしにかかってくださらなければ、僕はきっと、もう二度と村には行かない、と言いながら別れることになっていたでしょう。

たくさんの本気の人々からの、本当の言葉をもらって、僕はようやく気づけました。

気づけるポイントはたくさんありました。でも、自分じゃ気づけなかった。気づいたときには、もう遅かった。後悔はたくさんあります。でも、もう後戻りはできません。

僕は、農から手を引きます。

でも、ここで貰った賜物だけは、もう二度と、手離したくありません。

だから、今日のこの最後の一歩を、必ず次のための、最初の一歩にします。

ありがとうもごめんなさいも、もうどれだけ言っても、足りません。だから、それを言い続けるかわりに、僕は、僕が貰った賜物が、僕の中にしっかり生きていることを、示せる人間になります。そうしてまた天栄村に帰って、必ず「ただいま」を言いに行きます。

そのために、まずは置かれた場所から、それを始めます。

その舞台は、教育という場所です。僕はこれから、もう一度、「教育」というものと向き合います。学校という場所。それから、学校という形とは違う場所。塾や、フリースクール。家庭教師。世の中にはまだまだ、僕が知らない「教育」がたくさんあります。だから、そこに飛び込んで、「教育」を知りに行きます。これまで三年間続けた学校でも、もう一度、これが始まりだと思って、向き合います。

それからもうひとつは、文学。自分の世界に籠るのではなく、この賜物を生かして、もっと広い世界を見て、そこに僕自身の魂がこもって、そうして何か言葉に出来るなら、きっとそれは、誰かに必ず届くものが出来上がるはずです。

この三年間、僕は本当に恵まれていました。その時間を待ってくれた両親にも、心から感謝しています。

この村で僕は、憧れを知りました。それを続ける難しさも知りました。そして何より、自分が何も持たないことを知りました。

だから、僕はこんなことを、伝えられる人間になります。

憧れの美しさと、それを追い続けることの難しさ。思い通りになんていかないこと。自分の無力さを思い知らされること。そんな時に、差し伸べられた手を、握り返すこと。自分の中に籠ってしまっては、何も見えなくなること。それは憧れを潰えさせてしまうこと。僕は自分の経験から、それを伝えられる者でありたいと思います。

そして願わくは、僕を越えてゆく誰かが、憧れにきっと近づけることを。憧れの眼差しを失わないことを。憧れという、その青い燈をともしつづけることを。僕は、それを伝える者になりたいと思います。

僕が何かを成したと思えた時に、今日踏み出したこの最後の一歩が、始まりの一歩であったと思えるように。そしてその足で、またこの村へ、帰って来られるように。

かならず、またここへ帰って来ます。
その時まで、少しだけ待っていてください。

今まで、本当にありがとうございました。